2006年07月30日

こぐこぐ自転車

伊藤礼著「こぐこぐ自転車」読了。
70歳を超えている著者とその友人が1日に80kmも走るのに驚く。
しかも最後の方に淡々と書かれているが、若い頃に結核で肺の切除手術を受けているという。
房州や北海道への「遠征」より、首都圏のサイクリングの方が個人的には興味深い。たまに自分が自転車や徒歩で往来する場所が出て来るとうれしい。
著者のとぼけた語り口は味があるが時に辛辣で、道中で出会った人物の描写は容赦ない(笑)。
著者が保有している6台(!)の自転車に東村山市の「dioss」自転車店で購入したショップブランドの自転車があったが、この自転車店には心当たりがなかった。ネットで調べてみると普段よく通る道にある店であったが、いちども入ったことはない。
ちなみにStevenの自転車はブリジストンのMERIDAというブランドのCROAD CF 8500というクロスバイクで2003年8月に購入したものだ。泥除け・保険+防犯登録含めて4万円少々であった。
購入した自転車店にはたいへんお世話になっている。昨年末には後輪のシャフトが折れたのを無償で直してもらったし、今年1月には入間まで出かけてそこで突然ペダルが根元からポッキリ折れるという今までにない故障に遭遇したが、地元まで引いて帰って来て結局無償で修理してもらった。先日、パンク修理をお願いしたときも最近調子の悪かったブレーキ周りがついでに調整されていて非常に嬉しかった。自転車を購入する際には価格だけでなく、購入する店も選ぶことが大切だと思う。
 著者が小説家伊藤整の息子だというのは本書末尾の2行を読むまで気付かなかった。伊藤整については漠然と戦前あたりの作家だというくらいの認識しかなかった。Wikipediaの伊藤整の項を見ると「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳して裁判になったことと、伊藤礼氏が削除されていた問題部分を補った完訳版を出したことが書いてあって興味深い。
posted by Steven at 18:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

薩摩守

昼にTBS「噂の!東京マガジン」を見ていたら学校の「給食費不払い」が取り上げられていた。東村山市は小学校しか給食ないしな・・・などと思って見ていたら、「東京に不払い0の学校が!」ということで出てきたのは東村山市のよりにもよって出身中学だった。何時の頃からかプリペイドカードでの前払い方式の給食が導入されたらしい。前払いなのだから不払いはあり得ない。不払いが問題になってからそれを防止することを意図して導入したシステムなのかどうかは不明だ。不払い問題については以前から新聞で散見したり、「ビジネスジャンプ」誌の「島根の弁護士」で取り上げられているのを見たりしてちょっと気になっていた。この種の「ただ乗り者」フリーライダー問題の不毛な議論に深入りしたくはないが、サービスの提供を受けつつその対価は払いたくないという考えはちょっと理解出来ない。Wikipediaの「フリーライダー」の項を見ると日本人は自分の利益を損なってもフリーライダーの足を引っ張りたがり、その傾向は小学校低学年より上で見られるという興味深い記述があった。StevenはいつもWikipediaにフリーライドしているな・・・。
posted by Steven at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

脳内汚染

 先日、岡田尊司著「脳内汚染」を読んだ。
メディア・コンピュータゲームそしてネットが若年層に多大な悪影響を及ぼし、近年の途上国も含めた国内外の凶悪犯罪や引きこもり等の社会問題の原因にもなっていると主張しているが、全体として自説に有利なデータを恣意的に引用しているように思われる。
まず、近年凶悪犯罪が増加しているということが、この種の書籍の通例で根拠あることとして語られているが、事実かどうか不明である。
米国の銃乱射事件などの個別の事例については、犯人の少年達がプレイしていたゲームの影響を指摘しているが多くの要因の中の1つを針小棒大に取り上げているという印象を受けた。
また、ゲーム産業が自らに有利な研究結果を発表させるために研究者に研究資金を供与していて、ゲームの悪影響を指摘する研究を発表しづらい雰囲気があったり、メディアでも広告主であるゲーム産業の不利益になる内容は放送しづらいとのことだが、本当にそのような事実があるのだろうか。一般に、教育上の問題の責任を転嫁する目的やゲーム産業と他のメディア産業との競合関係などからメディアを含めてゲームを害悪視する者たちの方が声が大きいように思われるのだが。ゲーム産業としては科学的根拠を欠いた害悪論を野放しにするのは寧ろ怠慢であり、有用な研究に資金を提供するのは自然である。研究者は自分の信念に従って研究を進めれば良いので、研究資金のために説を曲げる「曲学阿世」の研究者の方が問題なのではないかと思う。
とはいえ、実体験に照らしても「依存」の問題は他の娯楽と同程度にはあると思われる。
そしてそれは他の娯楽と同様に本人の自己管理の問題ではあるが、自己管理が困難な子供の場合は親の管理が必要だと思われる。私などは自己管理が甘いのでゲームを購入すると基本的に最後までプレイしてエンディングを見るまで、睡眠時間を削ったり、他の用途に振り向ける予定だった時間を削ったりしてプレイしてしまうことが多いので、最近「大作」はあまり購入しない(そのような形でしかコントロール出来ない(汗)。)。ゲーム機がファミコンと同義語であったファミコン全盛期には「ファミコンは1日1時間」というキャッチフレーズがあったが、子供の場合、そのような最低限の管理を親の側で行う必要はあるだろう。本書でも触れられているが、ゲームをプレイすることで失われた、他のことをする筈であった「機会損失」は特に若年であれば思いの外大きくなるのは容易に予想出来る。ゲームが容易に非日常の体験をもたらす非常に魅力的な娯楽でまた多くの時間を費やすものであるがゆえに、大人であっても自己の生活・目標と両立させ得るかを考えて手を出すのには慎重である必要があるように思う。
 本書の主張で面白いと思ったのは、かつてのゲームの表現力が低く、それゆえ中毒性も低かったというような指摘(うろ覚えなので正確でないかも知れない)であった。実際はそんなことはなく、当時のプレイヤーは想像力を駆使して高度にシンボル化されたゲームを深く楽しんでいたと思う。現在のゲームはそれに対して3D化や映像・音声面の強化で現実感・臨場感が高まっているが、その部分に費やす開発リソースが大きくなり過ぎているような印象を受ける(実態はよく知らないが。)。開発費の高騰やゲーム内容の陳腐化といった話題を聞くとそのように思う。
posted by Steven at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記