先日、岡田尊司著「脳内汚染」を読んだ。
メディア・コンピュータゲームそしてネットが若年層に多大な悪影響を及ぼし、近年の途上国も含めた国内外の凶悪犯罪や引きこもり等の社会問題の原因にもなっていると主張しているが、全体として自説に有利なデータを恣意的に引用しているように思われる。
まず、近年凶悪犯罪が増加しているということが、この種の書籍の通例で根拠あることとして語られているが、事実かどうか不明である。
米国の銃乱射事件などの個別の事例については、犯人の少年達がプレイしていたゲームの影響を指摘しているが多くの要因の中の1つを針小棒大に取り上げているという印象を受けた。
また、ゲーム産業が自らに有利な研究結果を発表させるために研究者に研究資金を供与していて、ゲームの悪影響を指摘する研究を発表しづらい雰囲気があったり、メディアでも広告主であるゲーム産業の不利益になる内容は放送しづらいとのことだが、本当にそのような事実があるのだろうか。一般に、教育上の問題の責任を転嫁する目的やゲーム産業と他のメディア産業との競合関係などからメディアを含めてゲームを害悪視する者たちの方が声が大きいように思われるのだが。ゲーム産業としては科学的根拠を欠いた害悪論を野放しにするのは寧ろ怠慢であり、有用な研究に資金を提供するのは自然である。研究者は自分の信念に従って研究を進めれば良いので、研究資金のために説を曲げる「曲学阿世」の研究者の方が問題なのではないかと思う。
とはいえ、実体験に照らしても「依存」の問題は他の娯楽と同程度にはあると思われる。
そしてそれは他の娯楽と同様に本人の自己管理の問題ではあるが、自己管理が困難な子供の場合は親の管理が必要だと思われる。私などは自己管理が甘いのでゲームを購入すると基本的に最後までプレイしてエンディングを見るまで、睡眠時間を削ったり、他の用途に振り向ける予定だった時間を削ったりしてプレイしてしまうことが多いので、最近「大作」はあまり購入しない(そのような形でしかコントロール出来ない(汗)。)。ゲーム機がファミコンと同義語であったファミコン全盛期には「ファミコンは1日1時間」というキャッチフレーズがあったが、子供の場合、そのような最低限の管理を親の側で行う必要はあるだろう。本書でも触れられているが、ゲームをプレイすることで失われた、他のことをする筈であった「機会損失」は特に若年であれば思いの外大きくなるのは容易に予想出来る。ゲームが容易に非日常の体験をもたらす非常に魅力的な娯楽でまた多くの時間を費やすものであるがゆえに、大人であっても自己の生活・目標と両立させ得るかを考えて手を出すのには慎重である必要があるように思う。
本書の主張で面白いと思ったのは、かつてのゲームの表現力が低く、それゆえ中毒性も低かったというような指摘(うろ覚えなので正確でないかも知れない)であった。実際はそんなことはなく、当時のプレイヤーは想像力を駆使して高度にシンボル化されたゲームを深く楽しんでいたと思う。現在のゲームはそれに対して3D化や映像・音声面の強化で現実感・臨場感が高まっているが、その部分に費やす開発リソースが大きくなり過ぎているような印象を受ける(実態はよく知らないが。)。開発費の高騰やゲーム内容の陳腐化といった話題を聞くとそのように思う。
2006年07月30日
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